東京レジリエンス

言葉に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

「気づきを得た」「学びがあった」への違和感

『素晴らしい気づきがあった』という言葉が嫌いです。

社会人になってしばらくして、意識の高い知人友人ができて、勉強会やそういう類に参加するようになるお年頃になって、

そのあたりから耳にし始めて、もう何年も嫌いです。

違和感ありませんか?

 

「~ということに気づきました」「~について勉強になりました」

は違和感ありません。

 

これを、体感知と知識の違いや、知識の習得と混同することで自分の経験の価値を上げる無意識として説明する人もいます。

私もおおむね賛同です。

言葉で説明するのがすごく難しいのですが、

気づく、学ぶという動詞は自分が主体となって、主観によってなされる動作です。

「気付く」は「私は」という主語を必要とする動詞ですが

その人の主観による動作ではなくなった言葉が「気づき」です。

つまりこの段階で、「気づき」は「気づいたこと」(気づくの名詞化)とは異なるニュアンスとなってしまっていませんか。

そしてそこからの使い方が決定的で、

(これを『体感知』の混同と呼ぶ人もいます)

「自分が気づいた」という個人の事象としてではなく、

あたかも「気づき」は世の中の全ての人間に公平かつ同時に存在していて、今この瞬間に、「自分(だけ)が気づきを見つけた」という体で語られます。

「誰も気づかないことに気づいた意識高い自分」をいうニュアンスを感じませんか。

「~に気づいた」ではなく「~という気づきを得た」と表現することで、自分の体験したことの価値を高く見せようとする意識がそこに介在している気がしませんか。

その手法が気持ち悪いのかもしれません。

 

まあだから、意識高い系のマウンティング用語だなっていつも思うんですよね。

「気づきがあった」 「学びを得た」は、これからも使いたくないと思っております。