東京レジリエンス

言葉に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

今日の他人の言葉[責難は成事に非ず]

十二国記』シリーズは元祖ラノベなのですが、

その緻密な世界観といい、文章といい、実際の歴史小説のような物語です。

古代中国っぽい。

超初期に出てきた行方不明のイケメン王様が見つからないまますでに25年くらいが過ぎているのでやきもきしながら生きているファンも多いのですが(私もその1人)、

この『華胥の幽夢』はその中でも最近の刊行です。最近っていっても2001年なんですね・・・。

この中に出てくる言葉、登場人物の為政者が退位する際の辞世の句というか遺言です。

 

『責難は成事に非ず』

 

これ、ネットで検索すると全然間違っている意味の解釈ブログがたくさん出てきますね。

責めるなら対案を出すだの対案を出さないだのという解釈してるおっさん、本当にこの小説を読んでいるのかしら。

対案なんてどこから出てきた妄想なのかしら。

 

責難、責めたり非難すること。

成事、事を成す。

『責めたり非難したりすることは事を成すことではない』

が、原文そのままであり、事を成す、というのは「責めた対象の代わりに成し遂げる」ではなく、「責めても何も成されていない」という意味になります。

「何かを責めたり非難したりして自己満足しているのってなにも出来てないからな」

という現状を認識しているだけです。

 

例えるなら、現在の日本の野党でしょうか。

自民党政権のここがだめだ、そこがだめだと非難して、実際それは改善が必要な点かもしれないけれど、「非難したった!言ったった!」と満足しているようでは結果は何も得られていませんよね。

 

この言葉には「だから対案を出して行動しろ」なんていう蛇足はついてきていません。

これな。ほんとこれな。

野暮な解釈するなよ。

 

この遺言を残した為政者自身が、「前政権を非難するだけの自分の政治は上手くいかなかった」という状況を反省して退位する際の言葉です。

「自分が正論で誰かを責めても、責めるだけでは何も成されない。自分が今しようとしていることは、何か事がなされるためのことか鑑みろ」という、「自己満足」を戒める言葉だと私は解釈しています。

 

とりあえず十二国記は全巻面白いので大丈夫です。こんな野暮なブログよりも本を読んでください。

華胥の幽夢 十二国記 (講談社X文庫)

華胥の幽夢 十二国記 (講談社X文庫)