それが口癖なら今すぐやめたほうがいい。
お高いブランドバッグや素敵なファッションを身に着けている、
おいしい物を食べている、
楽しい予定がある、
面白い体験をした、という話をする時に
「いいな~いいな~!」
って羨ましがって相槌打つ人いますよね。
ランチで頼んだパスタとかを「いいな~いいな~エビすごい大きいね~!」とか言われるとだと「あ、1口食べますか?」みたいな流れになりがちです。
そこで、「あ、ごめんね大丈夫!」という人はたまにいますがあまり多くないと思いますがいかがでしょうか。
だいたい、「え、なんかごめんね~ありがと~」と受け取りますね。1皿に5尾しか入っていない大きいエビもらっていきますね。
私が昔、懸賞で何かが当たった話をした時も「いいな~いいな~」って言われて、あまりに連呼されるので何か3つセットもの(ハンドクリームのセットとかだったと思う)の1つをあげたこととかもあります。
あの、「いいな~」を連呼する人って浅ましい感じがしませんか。
欲しがりの幼稚園児ってそんな感じじゃないですか。
というか、私は「人のものを欲しがっちゃいけません」って幼稚園の時に躾けられましたけど。
でも、言っている本人は、あれ、褒めてるつもりらしいですよ。
中には本当に欲しがっている人もいますけど。
あと、超個人的な主観ですが、「妹」もしくは「兄弟のうち自分だけが女性」の女子がやりがちな気もします。まあ、人生の中でそれでゲットできたものが多いんだろうな。。。
ということで、私はすごく色々なものをよくうらやましがる人にかつて尋ねたことがあります。
「○○さんて、よく「いいな~」って言いますよね。欲しいんですか?」
何だか文字にするとゴリッゴリに嫌味の矢が突き刺さってますが、実際は何か昼間のランチ時か何かにたわいない話の流れで爽やかに聞きました。大丈夫です。彼女は今でも良好なランチ仲間なので大丈夫です。
その人ははっとして、
「あ、私すっごく褒めているだけなんです!先日も義理の姉が持っているシャネルのバッグを、会った時に持っているといつも「いいな~」ってずっと言っていたのでそのバッグを欲しがってると思われて、「ごめんね、これはあげられないんだけど・・・」って断られたんです。や、やめた方がいいですよね、、、」
とおっしゃってました。
その後、「いいな~」と羨ましがる頻度は減りました。
と、いうことで、だいたいは「いいな~」の連呼は「欲しがってる」って思われますよ。
人のものを「いいな~」と言って「褒める」のはオススメしません。
体力の回復には睡眠がイチバン・・・。
女子力とは何か。
お弁当男子に女子力高いねって褒めたら云々、
ていうtwitterのつぶやきがちょっと前にバズってたんですが、
女子力というのは本来、曖昧な概念で、「とりあえず何かを褒める」ときに使う言葉なのではないでしょうかね。
ネイルとか、
料理の写真(食べてないから美味しいって褒められない時)とか、
髪のセット具合(髪型がセンス良い、お金かかっているような場合は女子力高いという表現とはそぐわないと思う。ちゃんといつもブローして巻いている、そういう状態を一般的に女子力高いと言うとして。)とか、
他の表現で褒めようがないものを褒めるときの。
だいたい料理が凝っていたりファッションに凝っていたり何かしらの手間をかけることを褒めるけれど、そういった事柄に手間をかけない女性陣は女子力が高いと褒められないことに心をざわつかせていたりします。
あまつさえ「女子なんて若作りな言葉気持ち悪いわ」と言って褒められること自体を拒否したりしているのでは。
何のことはない。
「女子力高いね」は、とりあえずコミュニケーションを成り立たせるための「女子のコミュニケーションスキル」なのではないでしょうか。
褒めることで場の空気を盛り上げているだけの!
従って、「私は女子力ないから~」という謙遜の表現はあるけれど、
「お前は女子力が低い」という非難の表現は本来存在していない。
(そんな適当な非難は受け流して良いと思う)
女子力、たかがコミュニケーションの潤滑油なので。
ということは、女子力高いね、と褒められるのが良い女子ではなく、気軽に他人の女子力高そうなポイントを適当に褒め湛えるのが「女子力高い人」ということでは・・・!?!?
お弁当を毎日作らない人も、他人の女子力高そうなポイントを毎日褒めていれば「女子力高い人」になれるのでは!!!
ま、褒められて悪い気のする人はいないから。(笑)
就活は恋愛みたいなもので。
恋愛に限った話じゃありませんが。
大人が人付き合いをするときに、「あなたがこういう人だと嫌いです」なんて言いますかね?
「この人は合わないな」と心の中で思って、そっとフェードアウトしませんか?
就活もそれと同じじゃないですかね。
「俺、こういうタイプは嫌いだから!」と声を大にする人は私は嫌いです。
ということは、私にも御社は合わないんですね(笑)
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哲学はどこへ行った
服の話、形而下の問題。
マッキントッシュフィロソフィーが出始めのころに良く買った。
ワンピースを着ていると「それどこの?」と尋ねられた。
シンプルなAラインだけれども小さな原色のドット、紺と黄の目立たない小花柄だけれども艶のある生地など。
しかし当時から、このブランドには『ラッピング』がなかった。
カーディガンをちょっと高価なプレゼントとして送りたくても、ブランドのリボンも箱もなかった。
権利の問題だったのだろうか。
店員さんも
「ご要望をいただくので、ラッピンググッズを作ってくれるよう本社に言っているのですが、作ってくれなくて・・・」と言っていたのが印象に残っている。
1着3万円のワンピースは、よくよく吟味して買ったけれども、外れはなかったので良い買い物だった。今でも着ている。
何年か服を買い続けていたものの、
まさしくマッキントッシュロンドンが出てきたあたりで「百貨店っぽさ」を感じるデザインになってしまった。
百貨店っぽさというのは、控えめに言って、
野暮ったく、モダンではない、ベージュが多すぎて色味にセンスのないデザインになった。
なので、もう何年も買っていない。
デザイナーが変わったのだと思っていたけれど、なるほど、あれは百貨店っぽくなったのだ。
靴磨き。
何年か前ですが『高級靴みがきセット』をもらったことがあります。
高級って言っても、びっくりするほどお高いわけじゃないのですが、
今まではわりとリーズナブルなシリーズを使っていたため、その仕上がりの差に感動しました。
「今までの私の靴磨きはオママゴトだったわ・・!!」と思ったくらい感動しました。
いただいたのはこのブランド。
当時の記念撮影。
あまりに綺麗なツヤが出るので、リピ買いしました。
いただいたのは黒だったので、次は透明。
透明は何の靴にでも使えるので万能です。
さて、靴のケアって人それぞれらしいと最近知りました。
私はだいたい週1ですが、1シーズンに1回という人も。
実際1シーズンに1回って言ってたのは東京の有名女子大卒の読者モデル的なきちんとカワイイ系。服も靴も私よりよっぽど清楚に整っています。どうして汚れが目立たないの?女子怖い。
あと
「そもそも靴のケア用品ってどこで売っているの??」
っていう意見も齢30超にして聞きました。実家怖い。
ちなみに高級なものでなければいつも買い物するダイアナやかねまつなどの靴屋さんのレジの所に置いてあります。
伊勢丹などデパートの靴売り場のレジの横にも。
ハンズやロフトにももちろんあります。
ちなみに上記のサフィールはハンズやロフトで買えます。
とはいえ、グッズを揃えても使い方がわからない・・・
という方は、シューケアグッズのメーカーさんのHPなどで検索すると、それぞれのケア方法がわかります。
例えば最近は常に流行っている『春スエード』はこんな感じで。
http://www.columbus.co.jp/how_to_care/maintenance/suede/index.html
お気に入りや履きやすい靴も、マメにケアするとびっくりするほど何年も履けます。
私は2万円くらいの靴なら10年近く履いているので、コスパは良いんじゃないでしょうか。
そんなわけでデイリーケアは以下の通りです。
なんだかんだ言っても週1くらいでしょうか・・・
①履いた靴は1日くらい外(できれば日陰、できなければ玄関)に置いておく。
土ほこり、雨に濡れてる場合などは応急処置を。
②クリーナーで汚れを落とす
③クリーム(つや出し)を塗る
④防水スプレーを軽くかける
これだけやっても1足5分くらいです。
そう、ポイントはマメなケア!
ちなみに、クリームを拭くための布。
つまり雑巾。
ガテンな趣味のある男子的用語だと『ウェス』。
ウェスっていうとかっこいいですよね。女子の中では通じないけど。
雑巾はわざわざ買ったりはしません。
「お父さんの着古したシャツ」がベストです。
綿100%の布です。
切り開いて、10cm角くらいの布にして使います。
雑巾はお父さんのシャツ!これ覚えて帰ってね!!
イタリアでは、「良い靴は持ち主を良い場所へ導いてくれる」ということわざがあるそうです。
ツヤツヤな靴はテンション上がりますよね!
「気づきを得た」「学びがあった」への違和感
『素晴らしい気づきがあった』という言葉が嫌いです。
社会人になってしばらくして、意識の高い知人友人ができて、勉強会やそういう類に参加するようになるお年頃になって、
そのあたりから耳にし始めて、もう何年も嫌いです。
違和感ありませんか?
「~ということに気づきました」「~について勉強になりました」
は違和感ありません。
これを、体感知と知識の違いや、知識の習得と混同することで自分の経験の価値を上げる無意識として説明する人もいます。
私もおおむね賛同です。
言葉で説明するのがすごく難しいのですが、
気づく、学ぶという動詞は自分が主体となって、主観によってなされる動作です。
「気付く」は「私は」という主語を必要とする動詞ですが
その人の主観による動作ではなくなった言葉が「気づき」です。
つまりこの段階で、「気づき」は「気づいたこと」(気づくの名詞化)とは異なるニュアンスとなってしまっていませんか。
そしてそこからの使い方が決定的で、
(これを『体感知』の混同と呼ぶ人もいます)
「自分が気づいた」という個人の事象としてではなく、
あたかも「気づき」は世の中の全ての人間に公平かつ同時に存在していて、今この瞬間に、「自分(だけ)が気づきを見つけた」という体で語られます。
「誰も気づかないことに気づいた意識高い自分」をいうニュアンスを感じませんか。
「~に気づいた」ではなく「~という気づきを得た」と表現することで、自分の体験したことの価値を高く見せようとする意識がそこに介在している気がしませんか。
その手法が気持ち悪いのかもしれません。
まあだから、意識高い系のマウンティング用語だなっていつも思うんですよね。
「気づきがあった」 「学びを得た」は、これからも使いたくないと思っております。